河北潟干拓地の歴史

河北潟の干拓歴史

 河北潟の埋立、干拓の歴史は古く延宝元年(西暦1673年)の加賀五代藩主前田綱紀による約3haの新田開発に始まり、以降数次にわたる小規模埋立が行われた後、嘉永2年(西暦1849)にいたり、かの銭屋五兵衛によって230haの埋立によるる巨大な新田開発が開始され、工事が難航する中で嘉永5年、歴史上著名な銭屋五兵衛埋立工事疑獄事件として挫折し、銭屋一族が破滅している。

銭屋五兵衛の伝説

 五兵衛は弥吉郎(六代五兵衛)屋号銭屋を父として安永2年(西暦1773)11月、現在の金沢市金石町に生まれる。
両替商を営む祖父から五兵衛を名乗り、父弥吉郎の時には、金融業、醤油醸造業も営んでいる。
 17歳で家督を継いだ五兵衛は新たに呉服、古着商、木材商なども営むが、海運業に本格的に乗り出すのは50歳代後半からで、その後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となる。
 晩年は、河北潟埋立事業に着手するが、死魚中毒事故にかこつけた埋立て反対派の中傷による無実の罪で嘉永5年(西暦1852年)11月21日獄中で80歳の波乱万丈の生涯を終えている。
 この歴史上著名な五兵衛の埋立工事疑獄事件は、北前船を駆使した海外貿易説のなかで、樺太の小民族である山丹人との家具類の公易(山丹貿易と称されてい る)をしていたため、山丹人から手に入れた「アイゴ油」を河北潟埋立の際に使用したとして事件の嫌疑をかけられたとの説もある。
 また、銭屋五兵衛の巨大な富は並の商売では不可能であり、当然に密貿易も推測される中で、加賀藩では多額の御用金を納めることを条件に、五兵衛の密貿易 を黙認していたともいわれている。それが後に幕府の知るところとなり、藩では河北潟埋立事件を利用して五兵衛を抹殺したのだと伝えられているなど銭屋五兵 衛の海外貿易については諸説紛糾として、なかには全く現実味のないものもあるが、一概には否定できない面がある。

銭屋五兵衛の業績

 五兵衛の生きた江戸時代後期は、近代社会へ大きく転換しようとする変動の中で、国を閉ざして専ら農業に経済基盤を置く幕府体制が行き詰まり、商工業の自由化と活性化による自由経済の実現を求めていた時期に当たる。
 五兵衛が北前船交易、藩営商業そして河北潟新田開発を通じて実現しようとしたものは、その自由経済を見据えて国を富まし民を潤すことにあったものと推察できる。しかし、廻船業によって得た利益を諸産業に投資することによって富国民利を計ろうとした五兵衛の夢は、頑迷な封建主義と五兵衛の先進性を理解しない人々の反感と陰謀によって惜しくも潰されてしまった。
 更に皮肉にも五兵衛が牢死した翌年ペリーが浦賀に来航するなどにより開国が実現しているが、近代社会の夜明け前の暗闇の中で潰され去った五兵衛の夢とその遺志は明治以降広く顕彰されるに至った。
 このように河北潟干拓地の歴史は古く、藩政期にまでさかのぼり、その中で銭屋五兵衛の悲話もあっていつの時代にも河北潟の開発に先人の熱い視線が注がれていたのである。